駅弁ヒストリー

毛ガニイメージ

浜の厄介者が網走名物の弁当に

薄味に味付けされたかにのフレークや錦糸卵、しいたけの甘露煮が、醤油ベースの出汁で炊き上げたご飯にあしらわれている網走駅の「かにめし」。製造販売を手掛けているのは創業80年を迎えた株式会社モリヤ商店だ。

網走らしい名物駅弁を作ろうと、三代目守屋彌が着目したのが当時前浜で水揚げされていた毛ガニだ。当時の網走では毛ガニを食べる食文化がなく、漁師の間では海の厄介者として扱われていた。加工場に毛ガニをゆでてもらい、むき身にしたものを仕入れ、幾度となく試作を重ねた。かにの味と風味を損なうことなく絶妙な味わいに仕上げるには相当の苦労があったという。地元網走の倉繁醸造で作られた白醤油と砂糖で水分がなくなるまでじっくり煮つめるのだが、その分量が多いとカニの味も風味もしなくなり、また薄いとカニの旨みが引き出せなかった。

何度も試作を繰り返し、かにのフレークはカニ本来の味と風味を最大限いかせる薄味にし、ご飯はカニの煮汁と少量の醤油を入れた醤油味でしっとりふっくらと仕上げ、その上に錦糸卵、しいたけの甘露煮、昆布の佃煮をのせ、それぞれがかにの味と風味を引き立てる絶妙な味のバランスを探し当てた。

苦労の末発売された贅沢な味わいの「かにめし」は、冷めてもおいしいと評判になり、すぐに網走を代表する駅弁となった。

昭和時代のかにめしの掛け紙

作り立てにこだわる守り伝える老舗の味

1970(昭和45年)年代には、「知床旅情」のヒットによる知床ブームもあり、駅という駅は活況を極めた。モリヤ商店でも従業員が30名を超え、ホームでの立ち売りも6名体制となり、「かにめし」だけで一日200食以上も売れたという。しかし、どんなに売れようと、冷凍保存することなく常に作り立てのおいしさを味わってもらいたいと、当時会社の電気が消えることはなかったという。まさに駅弁全盛の時代だ。

網走駅

その後、モータリゼーションの急速な進展により、国鉄の旅客輸送シェアは年々減少し、1987(昭和62年)年4月に国鉄は民営化された。そのような逆境の中、6代目として家業を継いだ現社長の守屋靖太良氏は、先代が築いた「かにめし」と網走駅弁の歴史の火を消してはならないと、経営手腕を発揮した。かにめしの容器をプラスチックから発泡素材へ替え、掛け紙をひもで結んでいたパッケージも手間のかからないスリープ式にするなど省力化とコスト削減をめざした。

さらに、百貨店の催事にも出店し、東京、名古屋、大阪など、有名百貨店の北海道フェアでは1日1,500個も「かにめし」を販売、全国に網走の駅弁を知らしめた。その甲斐あってか、80年間変わらぬ味を守り続ける「かにめし」を求め、全国から訪れる客がいまだ絶えないという。

JR北海道が単独では維持困難と公表した石北本線と釧網本線の終着駅網走。時代に翻弄されながらも7代目となる守屋嘉男氏が札幌での修行を終え、次の時代へ「かにめし」の変わらぬ味を守り伝えようと、モリヤ商店の新たな挑戦がはじまろうとしている。

北海道新聞発行「プラウ」2019年4月19日掲載

かにめしの味は、代々引き継がれる

かにめし・お弁当ギャラリー